(いじめ緊急集会 資料)「北本裁判」控訴声明文(児玉弁護士より)

(いじめ緊急集会=児玉弁護士より) 「北本いじめ裁判」 控訴声明文

 

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控訴声明文

 判決後の記者会見でも私たちはこの判決の不当性を声明文とともに明らかにしました。私たちは本件自殺の原因はいじめであることは証拠上からも明らかで、被告らにこのいじめを防止すべき義務と調査報告する義務があることは、従来の判例に基づいて十分主張・立証できたと確信しています(証拠を示して会見場でも説明したいと思っています。また、証拠で認められることを私たちの最終準備書面には丁寧に種々書かれていますので、必要な方は児玉法律事務所y-kodama@law.email.ne.jpまでご連絡ください)。

 

したがって、原審の判断には誤りがあることから、先ほど控訴しました。

 

1 いじめについて

 

この判決の誤りは、まず第一に、「一部いじめがあるとしても」と言っているが、一部いじめを認めているが、全体としては、「いじめはない」という結論を出した点です。

 

 文部科学省による「いじめ」の定義によれば、「いじめられている被害児童の立場に立って」いじめかどうかを判断しなければなりません。しかし、東京地裁判決は、いじめられていた佑美さんの視点から同級生によるいじめを判断していません。

 

 うざい・きもいとの言葉、靴隠し、トイレに連れて行き便器に顔を浸けられそうになるなど、これらはいじめの典型的な事例です。裁判所は、これらを「不愉快であったかもしれない」という程度にしか認定していません。

 

 心を傷つける言葉の投げかけという心理的ないじめが続くと、その与える精神的苦痛は計り知れないこと、圧倒的な行動によるいじめは抵抗する気力を失わせることなど、この裁判でも横湯教授、武田さち子氏など専門家などの鑑定意見を出してきましたが、そのような専門家の意見も全く検討された余地も伺われません。遺書には「死んだのはクラスの一部に勉強にテストのせいかも」と書かれていて、遺書そのものからでも、交換日記など、裁判での数々の証拠から考えても、いじめ以外の理由があるとは考えられず、単なる言葉だけを捉え、これら4人の裁判官(判決前に審理した裁判長は代わってしまいました)は佑美がいたたまれない、押しつぶされそうな苦しみに耐えていたことへの共感と配慮が全くなされていません。

 

 死人に口なしで苦しみおののいて死んでいった生徒への共感と配慮が全くない冷たい判決です。

 

 佑美は、建物の8階から飛び降り自殺をしたのです。現場に行けばお分かり頂けると思いますが、あのような高い所から飛び降りるということは、通常では考えられないことです。それでも飛び降りた、ということは、佑美に耐えがたい、極めて大きな苦しみがあった、ということです。このことからも、佑美がいじめにより自殺をした、ということは、その疑いがあることはもちろん、むしろ、明らかであることは、直ちに理解されることであるにもかかわらず、原判決は、死ぬほどの事実は認められないとして、遺族の請求を退けたのですから、驚くばかりです。これは、いかに裁判官が形式的な判断をしたかを示しています。

 

2 いじめ防止義務違反

 

 学校、教育委員会は、いじめをいじめとして理解できなければいじめ防止義務を果たすことができませんが、教育の専門機関であり、既に長期にわたり子どものいじめの問題が深刻な問題になっている現状において、いじめをいじめと理解できないことは、いじめと知ってそれを防止しない義務違反以上に重大な違法性があると言わなければなりません。また、そのような現場の教育機関における問題性は、たびたび問題になってきており、文科省はそのことについて適切な対処を採らなければならない立場・時期にあったことは熟知していたはずです。今回、大津市イジメ自殺事件で教育機関の問題性が指摘され、文科省が乗り出してきたことはまさにその立場にあることを明らかにしています。

 

 本件では、いじめをいじめと見ることができず、個々の行為を「不愉快」なことととらえていたに過ぎないことは、防止すべき義務を著しい過失で怠ったとしか言えません。

 

 大津の事件では、子どもからいじめとして申告された教師は単なる喧嘩と決めつけ「いじめ」を否定し黙認しました。これは教師間において「いじめ」があってはならないという暗黙の力があり、例え目の前にいじめがあっても喧嘩として「いじめ」の事実を隠蔽することになるのです。そうした実態を顧みることなく、裁判所が学校教委の認識を鵜呑みにすることは、結果的に司法における学校によるいじめの隠蔽の肯定になるということを銘記すべきと考えます。

 

 いみじくも両親が記者会見で「いじめはコップに一滴一滴水が溜まっていって、最後にあふれ出すようなものなのに、判決は一滴をみていじめはなかったとした。これではいじめに苦しんでいる全国の子どもたちが救えない。」と述べたことは正鵠を得ていると言えます。

 

3 調査報告義務違反

 

 原判決は、調査報告義務違反についても、十分吟味せず、合理的裁量といって、今までの判例を超えた判断をもって、簡単に退けています。

 

 原判決は、遺書に書かれている内容からすれば、今回程度の調査報告で足りる、それは学校側の裁量である、としたのです。

 

 しかし、このように広い裁量を学校側に認めるべき根拠はありません。本件は、塾強要の脅迫文書・母親の小学校時代のいじめメモなど、いじめが疑われる状況と証拠がある以上、具体的ないじめについて、佑美の自殺を書いたアンケートをもつなど、二者面談も含め、適切な調査報告を遺族にすべき義務があることは、当然のことです。文科省も具体的なアンケート案も示し、大津でさえもそのようなアンケートです。

 

 ところが本件は,具体的な自殺につながるいじめを調査するアンケートでなく学校は楽しいですか等の生活アンケートでそしていじめがないからそのようなアンケートにした,日本の文化からと言い,もし,いじめの事実が出てきたら具体的なアンケートにすると言って途中色々ないじめの証拠が出てきても自殺の原因の具体的ないじめの事実についてのアンケートはしませんでした。

 

 それにもかかわらず、この判決は、遺書から明確に、自殺につながるいじめが読み取れない限り、学校側は合理的裁量と裁量を多くして、おざなりな調査をすれば足りるということになりかねません。そのような無責任なことが、学校側に認められるべきではないこと、大津の事件を見れば教訓としても明らかであり、それにもかかわらず裁判官はこのようなことをわからなかったのでしょうか。

 

4 国の責任

 

 私たちは、過去のいじめ自殺のみならず、将来のいじめ自殺を防止する意味でも、今までのいじめ自殺の原因とその隠蔽と被告国の政策の不十分さをこの裁判で問うてきましたが、この点においても、全く「国民の権利利益の保護を直接の目的とするものではない」と述べているだけで、何も触れずに退けています。

 

 いじめ対策は1999年から2005年までいじめ自殺ゼロと報告し、これが違っていたことが滝川事件以降明らかにされ、一定の政策の手直しをし、文科省はいじめを明らかにし、いじめ防止に向けるよう再調査をマスコミなどを通し、公に述べたにもかかわらず、本件裁判では、教育委員会の調査結果を確認したに過ぎないとし、実際はたった1日しかない中で、市から県の報告でも2年間遺族から自殺の原因のいじめの真相要求はなかったことも含め、遺書はない、いじめはないということをそのまま再調査結果とした極めて問題のある再調査が行われました。

 

 他の再調査のケースの中にも裁判中のケースがあり、これを「係争中」とされ、したがって、本件事件は、裁判提起との報道がなされているので、「係争」「裁判提起予定」などとすべきで、それにもかかわらず、これを「いじめ・遺書なし」としました。このようにして、社会問題としてのいじめ自殺の再調査で、教育基本法の問題を控えていることなどからも今期のいじめ問題に蓋をしてしまい、本件事件については、裁判提起しようとする中、「いじめはない」「遺書はない」と、原告らを傷つけたことが裁判で明らかにされています。そしてこの再調査の際、多くの遺族からも事情聴取もされずまた隠蔽されてしまうという数々の声が、新聞記事からもあがっていました。このような手続をしたために、再び、その後今は大津の事件が、2年前には群馬の事件が再びいじめ自殺事件とその隠蔽が社会問題となっています。この問題を問うている裁判であるにもかかわらず、私たちは二度とこのような事件があってはならない施策を問うたにもかかわらず、この部分もことごとく全く否定してしまいました。

 

5 終わりに

 

 今回大津の事件が社会問題となっており、野田首相もメッセージをするなど、毎日マスコミで騒がれているように、このような判決では、同じような事件は再び起きうることを私たちがこの裁判で種々の主張・立証をしてきたことの経験からも、懸念をもって、確信をもって言えます。

 

 私たちはこの裁判でも、子どもたちからいじめをなくしていくこと、防ぐこと、いじめがあったら教育的対応で加害者にいじめの問題性を認識させ、被害者を早く救済し、そして傍観者・観衆者を含めいじめを阻止し、いじめが解決できるように、教師にもその余裕をもった自由な雰囲気と、子どもたちが活き活きと過ごせる状況が必要なことを裁判でも展開しました。ところが、今このこととを全く違う方向に加害者・学校・教育委員会へのバッシングだけに終わってしまうような流れにあることに懸念を生じています。

 

 私たちは裁判の中で、なぜいじめが起きるか、どうしたらいじめをなくせるのかという根本的原因として、国連からの日本における過度の教育競争や、体罰・いじめ・児童虐待など暴力が子どもたちに蔓延している状況などを、国連から国は3度も勧告されていることをいじめの原因として指摘し、またその防止のために、現場の教師がいじめの対応できる余裕と評価管理からの教師の教育の自由と、子どもたちが安心して学べる教育を受ける権利といじめを訴えられる子どもの意見表明権の保障を、昭和51年の最高裁学テ判決のいう教育の本質は教師と生徒の人格的接触との判示が実現できるよう,まさしく、憲法、教育基本法・子どもの権利条約が実現できることを望んできましたが、本件判決のみならず、大津の事件への対応にもその方向へ行っていない懸念を感じています。

 

 そして、私たちはこれまで司法機関がどれだけいじめ裁判において、いじめを解決するための判例として真剣に形成してきたかを問い、全く今まで不十分であったとしか言えないと思っています。鹿川君のいじめ裁判のとき、いじめ・自殺である徴候が認識されない限りはいじめ自殺への予見可能性がないとしてしまった判例などをもって、学校現場はこれを依拠して多くのケースではいじめの認識がなかった、自殺の認識はなかったと、法的責任を免れようとしてきました。

 

 そしてまたようやく、平成13年1月25日横浜地裁の判決(津久井のいじめ自殺事件)では、いじめ自殺が社会問題となっており、自殺としての可能性である点を踏まえ、自殺への予見可能性を認めました。また、平成2年12月福島地裁いわき支部の判決では、重大ないじめが行われていることをもって、自殺への予見可能性が認められるとされました。そして、平成17年9月に滝川市内の小学校でいじめを苦に女子児童が自殺をはかり死亡した事案にかかる損害賠償請求事件において、平成22年3月26日和解が成立し、これにつき、私たちは今期のいじめ自殺事件を解決するモデルケースとして、この裁判でも主張してきました。

 

 大津もそうですが、どの事案の場合でも、最初はいじめを否定し、批判されるといじめを認め、それでも自殺への因果関係、予見可能性はないとして否定し続け、亡くなった子どもたち、遺族の方々の心の傷を深め、広げています。学校現場も教育委員会も文科省も司法のこのような判例に依拠して、学校・教育委員会・文科省は責任を逃れようとしてきた次第です。だからこそ、私たちはこの裁判で、本件はいじめがあったことが証拠上明らかであり、これを認識しなくても過失ありとし自殺への因果関係、予見可能性があることを主張し、そして特にいじめについては、学校と保護者、学校でも多くの教師が全体として一体となって共有して対応することができなければ過失ありという主張をし、私たちは今期の今までのいじめを解決すべく必死に主張を展開してきた次第です。

 

 ところが、今回の北本市の判決はそうなっておらず、いじめも曖昧にし、自殺に繋がるようなものではないと(その時自殺に繋がらなくても、その時のいじめ防止義務違反は成立しうるにもかかわらず、一部認容判決も否定し、全て自殺に繋がるかどうかで判断している)、今回の大津の事件と同じように、学校・教育委員会のいじめ自殺の責任を否定している現状を適法・容認してしまって、司法の責任、課題を放棄してしまっています。

 

 今この判決の批判が、市民・マスコミ・教育関係者からも多くででいます。そして、大津の事件は大きな社会問題となり、いじめ解決の正しい解決方法が見えず、混乱していると思っています。

 

 ぜひみなさんには滝川の和解の素晴らしさとその和解の中でこのような事件があったときには直ちに独立したいじめ被害者・遺族の立場に立てる第三者機関を設け、いじめ・いじめ自殺の真相を調査できるようにし、しかも、遺族の方々のメッセージを現場に届けることを踏まえた、北海道ではいじめ・いじめ自殺を防止しようとしたこの滝川の和解こそが、この本件北本市裁判で裁判官に認識して欲しいことを述べました。

 

 ところが全くこれへの検討がなされていません。

 

 しかも、今大きな社会問題となっている大津の事件も解決することにもなることを求めた次第です。最後に、子どもたちの遺書を本当に子どもたちの立場から考えて頂きたいとともに、子どもを守る3人の遺族の方々のメッセージを、今後のいじめ解決、大津の事件も含めて、3つのメッセージをお届けしたいと思っています。

 

 一つ目は滝川事件の遺族、2つ目は北本市の遺族、3つ目はやはりいじめ自殺をし、このような事件が起きないために神戸で活動している遺族の方のメッセージです。

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